本「逆転 アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判」2008年11月29日 15時36分02秒

行かないぞ、と決めた・・・と見せかけて、実はまだまだ悩みまくって困っている裁判員制度。

選ばれてもいないのにとことん悩むわけですよ。
どこまで真面目なんだ・・・私。(自分で言うか?)


去年、最後まで読まないうちに返却して、それっきりになっていた本をまた借りて読んでいます。

「逆転 アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判」伊佐千尋(岩波現代文庫)

沖縄では、1963年から1972年までの9年間、陪審制があったのです。
その間に開かれた陪審裁判は10件ほどだそうです。
著者の伊佐さんは、米兵が殺され4人の沖縄人が容疑をかけられた事件で陪審員を務められた方です。
この時選ばれた陪審員は、アメリカ人9人、沖縄住民3人でした。

今でも、在日アメリカ兵が起こした犯罪に対する判決は軽く思えます。では、その逆は?となると、よくわかりません。
沖縄の人が、アメリカ兵の住宅に侵入した、とか、アメリカ兵の子女をレイプした、とか基地内の学校に車で入っていってグランドでUターンした、とか自衛隊機がアメリカの住宅地に墜落・爆発・炎上した・・・というニュースに接したことがないからです。


米兵が沖縄住民を殺してもたいした刑罰にはならなかったのですが、逆に殺されたとなると米兵たちの怒りが激しく、集団的な仕返しがあるらしいとの噂で緊迫した雰囲気だったそうです。
「吊せ」と平気で言うアメリカ人の陪審員もいる中、出された証拠をきちんと判断して、伊佐さんは全員の無罪を説いていきます。


読んでいるうちに、「市民が参加する裁判は、私がまだ見たことのない高度な民主主義なのではなかろうか」と思ってもきました。

でも、今の日本で、その民主主義がきちんと守られているとは思えない点が非常に悲しい。
結局不安の方が大きくなってしまいます。
テレビのコマーシャルでやっているように、お風呂上がりの妻が髪をタオルで拭きながら「がんばって」というような軽いものではないです。

同時に「量刑も決める裁判員制度をいきなり始めるのでなく、罪の有無だけを決める陪審員制度で、まずは進めてみるべきなのでは?」と思います。


本一冊で、ずいぶん気持ちが変わっています。
少しだけ、知識も増えました。
去年、この本を紹介してくださったpyoさん、ありがとうございました。

コメント

_ pyo ― 2008年11月29日 18時20分06秒

はーい、呼びました?(^^)/

私がこの本を読んだのはもう随分前なんですが、
この事件が起こったのがいまの会社から歩いていけるほど近くでして。
知人は「ああこの裁判にかけられた人しってるよー」ってこともなげに言いますしね。
(ちなみにコザ暴動の「炎上」はもっと思いっきりローカルにご近所な場所です。)

さていま私自身が陪審員としてこの事件を担当したとして・・・
という視点で、もう一度読んでみたいですね。

はたして私の中に自分の感情抜きで事件の量刑を判断する基準があるかどうか、私も知りたいです。

_ ばるタン ― 2008年11月30日 01時08分29秒

◆pyoさん
「炎上」の方は読み終えて返却したのですが、「逆転」は読み始めたところで返却期限が来てしまったのでした。
そして1年が経過・・・現在に至る、というわけです。
陪審制度と裁判員制度の違いも、やっとわかりました。

pyoさんがおっしゃるように、自分の感情抜きで判断することができるのかどうかが、ほんとうに大事なことですね。それがなければ、どんな制度も形ばかりのものになってしまうでしょう。
それに、大声で主張する人に流されることなく、判断できるだろうか・・・と不安は尽きません。

この本の題材になった裁判は、とても希有な例だと思いますが、市民が裁判にかかわることの大変さとともに、希望や理想も伝えてくれます。

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