職探しの思い出2009年03月14日 23時58分54秒

写植の文字盤を見ているうちに、沖縄に来た頃のことをあれこれ思い出しました。

写植で就職しよう、と決めていたので、職安に通うのはもちろん、新聞に求人が載るたびに面接を受けに行きました。
で、ことごとく不採用、と。

地図を頼りに尋ねた会社は、細い小径を延々と歩いていった先にあり、道の両脇は延々と豚小屋。
採用されたら、毎日、この道を歩くのか・・・と、ちょっとわくわくしたんですけどね。
当時、沖縄の人以外(ナイチャー)を雇うのが想定外だった会社も多く、軒並み断られていました。

面接で、「高校野球で、沖縄とあなたの県が対戦したらどっちを応援するんですか」などと言われたりしました。

なかなか仕事が見つからないので、業を煮やした私は、電話帳を広げ「印刷」や「写植」と書いてあるところに電話をかけまくりました。
「写植オペレーターはいりませんか?」
このとき、写植学校で2ヶ月基本を習っただけで、実際の経験はゼロ。
電話をかける相手へのリサーチもゼロ。
今思い返すと、私も若かったということだな~。


「写植オペレーターはいりませんか?」
「ほしいですな」


いきなり電話する方も図々しいけど、平気で応える会社も、ちょっと変かも。
そこの会社では、女性オペレーターたちが次々産休に入るタイミングだったのでした。

私の沖縄での生活は、そこから始まったのです。
(ものすごく薄給で・・・・)

コメント

_ PFC ― 2009年03月15日 20時49分16秒

この記事を読んでぱるたんさんと↓のサイトを運営している女性が似ているような気がしました。

http://bridgeforpeace.jp/objective.html

「高校野球で、沖縄とあなたの県が対戦したらどっちを応援するんですか」という言葉が「日本人なんか見たくなかったのに何であんたはフィリピンに来たんだい!」という言葉に重なります。

面と向かってそう言われても沖縄やフィリピンとの関係をあきらめないところがやっぱり似ているなあと思います。

司馬さんの沖縄紀行エッセイに公衆トイレに脱糞して後を流さずに立ち去った人の話がありました。

「こんなことをするのは本土の人に違いない」とあまりの汚さに憤りながら掃除のおばちゃんに代わって便器を掃除したのは沖縄の青年でした。

沖縄には今でもそんな青年がいるのでしょうか?

いつかぱるたんさんやその女性が本土在住沖縄県人や在日フィリピン人と交流を始める日だって来るかも知れませんね・・・。

_ ばるタン ― 2009年03月15日 22時35分01秒

◆PFCさん
私は沖縄が好きで移住したのではなくて、ただ偶然沖縄だったんです。
だから、沖縄への敬意が素直に表せなかったのではなかろうか、ほんとにバカだったな、と思います。
高校野球に関しては、私は「負けている方を応援する」のが常なんですよ。

_ 猫丸(=゚ω゚)ノ ― 2009年03月15日 22時46分45秒

ばるタンさんの就職活動話に勇気づけられました!
ん~えらい~。

うんちを流さない本土の人はモチロン最低ですが、
タンを吐き掛けてくるうちな~オヤジも最低です。
(今日、やられました。寸でのところでよけましたが。
明日ブログに載せちゃる)
このオヤジのタン、掃除しなきゃいけないのかな…

_ ばるタン ― 2009年03月15日 23時48分06秒

◆猫丸(=゚ω゚)ノ さん
うちなーんちゅもナイチャーも、サイテーな奴から最上級までいるのよね~。
タンを見るたびに嫌な気分が甦るから、掃除しちゃったほうがいいと思うけど・・・。水がドバっと流せる場所かな・・・。

_ pyo ― 2009年03月17日 23時26分58秒

沖縄復帰前の時代にですね、
日本国籍の者が沖縄で公式に働いてはいけない、そんな時代があったそうなんです。
そのことを知った時にはじめて、私の両親が故郷の奄美から
わざわざ戸籍も先祖のお墓も沖縄に移した理由が飲み込めました。
奄美が復帰する前に沖縄に移住して、奄美が復帰する時に戸籍を移したようなんです。

こういう鎖国的な政策って、人の心に壁を作るんですね。
知らず知らずのうちに、うちなーんちゅ以外の人を雇う、部屋を貸す、
そういうことがいけないことのような気持にコントロールされいたんじゃないかなぁ?と思います。

_ ばるタン ― 2009年03月18日 01時36分22秒

◆pyoさん
そういえば、部屋を借りようとして、「うちなーんちゅの保証人が市内にいること。その保証人と親族であること」みたいな条件を出されたことがあります。
結局、うちなーんちゅにしか貸さないんですよ。

でも、あれだけの戦争のあとですから、日本軍を拒否し日本人を忌み嫌うのも当然だと思います。
復帰前でしたら日本は外国ということですね。複雑な感情や、ややこしい現実があったことでしょう。だから、公式に働きにくい、働いてはいけないという時代になったのか・・。
心の壁を持たない人たちのおかげで、私は暮らしてこられたんだなあ、とつくづく思います。

奄美の人々の背負わされた辛い歴史を想像しますと、pyoさんのご両親はさぞご苦労されたことでしょうね。私には、お元気で超マイペースなお母様の印象しかありませんが^^;

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