お久しぶりです2009年07月07日 01時43分36秒

お久しぶりでございます。

私の人生(これがすでにかなり長い・・)の半分以上を沖縄で暮らしていて、内地のことはよくわからなくなってしまいました。
ですが、沖縄の夏が始まる頃になると、強烈に「そうでした。私はナイチャーでした」と実感します。

夏に向かって急激に上昇する暑さと湿気に、体がひれ伏してしまいます。
全然動きたくない。(食欲はある)(遊びには行く)
ただでさえ暑いのに、パソコンのスイッチを入れるなんてまっぴらだ、という状態になります。

対処法は、できる限りゴロゴロして、ぐーたらして、あとはシャワーを浴びることですね。
シャワーでベタベタした汗を流すと、皮膚呼吸ができるようになって、とても楽です。
お風呂のあとに、乾いた肌着を着るのは、この世のシアワセでございます。



今日の沖縄タイムスに、壕から掘り出された日本兵の遺品が、遺族の元に返ったという記事がありました。
遺骨収集ボランティア「ガマフヤー(がまを掘る人)」の方々が、遺骨と一緒に印鑑を見つけたのです。
珍しいお名前だったために、ご遺族の特定ができたとのこと。

沖縄戦で亡くなった日本兵は享年34歳。
遺品を受け取りに来られた息子さんは68歳。
この二つの数字を見るだけで、胸が痛いです。

現場の土を握りしめた息子さんは、「土を握ったとき、写真の中で手を握っている父の手の感触がよみがえった。自分にも確かに父がいたという気持ちになった」と泣いておられたそうです。
お父さんの記憶は、写真の中だけだったのでしょう。


こういう沖縄戦関連の記事を読むにつけ、いつも思うのが「お風呂、入りたかっただろうな」ということです。
内地から沖縄に連れて来られて、夏に向かう季節のまっただ中に、湿度100%の壕で命を落とした人々。
最後に何を食べたのか。
壕に保管したお米は(当然のことながら)すぐ真っ黒に黴びたそうです。
栄養失調と劣悪な環境で、全員がひどい皮膚病だったという記述もありました。


この季節、シャワーを浴びるたびに、お風呂にも入れずに死んでいった人たちのことを思います。
その人たちは、私よりずっと年下だし、どんどん年下になっていきます。
戦争で死んだ人たちを心から慰霊するためには、次の戦争をしないこと。
それ以外には何もありません。

虫が出ました(苦手な人は読まないでね)2009年07月10日 17時49分06秒

玄関のニャンギラス

猫が外に行かないように、玄関ドアはほんの少ししか開けられません。
チェーンをして、古い下駄を挟んでおきます。
ニャンギラスのマイブームは、この下駄を手で引き寄せて外すことです。
そのうちドアに挟まれて痛い思いをするのではなかろうか・・・。



猫のトイレを掃除していたら、ウンコに見慣れないものが付着していました。

糸より太くて白っぽくて柔らかそうな長い物・・・。

あやしい・・・絶対にあやしい。
ビニール袋に入れて保管です。

すぐさま動物病院に電話しました。
「ニャンギラスのウンコに寄生虫みたいなのがついているんですけど」
「お薬で駆除できますよ」

さっそく、ウンコを持って病院に行きました。
「これが問題のニャンギラスのウンコです。ニャオスのウンコも持ってきました」
「区別がつくんですか?」
「ニャオスはお風呂場でウンコするので区別がつくんです・・・(泣)」

検査の結果、ニャンギラスの虫はカイチュウでした。
ニャオスには虫はいませんでした。

「ニャンギラスちゃん、お外に出ていないのに、カイチュウがいるのは非常に珍しいです」

珍しくても全然うれしくないです。

「去年駆除したはずなんですが、しぶとく生き残っていたのがいたとしか思えませんね。うちに来る猫ちゃんで、6回駆除してやっといなくなった子がいます」

そんなギネスに載りたくないです。


3日分のお薬をもらって帰りました。
薬を飲ませながら、ふと気になったことがあります。

ニャンギラス、寄生虫がいるのにこんなに太っているということは、駆除してしまったらもっともっと太るんじゃなかろうか。

あるいはお腹のなかに虫がいっぱいいて、こんなにふくらんでいるのか?
それが一度にどどーっと出てきたらどうしようか。
猫トイレに、ゴンズイ玉みたいなのがうごめいていたら?
(そしたら動画を撮ってアップだ!)



結局のところ、ゴンズイ玉は出ませんでしたし、次の検便で駆除が確認できました。
とりあえずめでたしめでたしです。

山学校2009年07月13日 23時03分49秒

沖縄で「山学校(やまがっこう)」と言えば、林間学校みたいなもの、ではなくて、「家は出たものの学校にはたどり着かなかった」ということです。有り体に言えばサボりです。
別に山に登らなくてもOK。

がらモンは、那覇市の中心で育っていますが、やっぱり山学校と言っていたそうです。

「どこで山学校していたの?」
「山形屋の裏」

山形屋は国際通りに面したデパートでした。今は無くなってしまいましたが。
国際通りでも山学校。畑に行っても山学校、海に行っても山学校です。
つまり、学校以外の場所のことを「山」というらしい。

山でもないのに、学校でもないのに、「山学校」。
なかなか見事な表現で、私のお気に入りの言葉です。


でも、この表現が、こんなに悲しく使われることもあったなんて。


今年の6月30日は、沖縄・うるま市(当時石川市)に米軍のジェット戦闘機が墜落して50年経った日でした。

「宮森小学校ジェット機墜落」という名称で知っていましたので、小学校に墜ちたんだ、と思っていましたが、正確には違うのでした。

当時の写真を見ると、住宅地に墜ちた戦闘機が家々をなぎ倒しつつ小学校に突っ込んだということがよくわかります。死者17名(うち小学生11名)、重軽傷者は200人を超えています。
パイロットはパラシュートで脱出していて、無人の戦闘機でした。

悲しみが深いために当時のことを話すことができなかった関係者の方たちが、50年をきっかけにお話をしてくださることも増えました。
自分が話さなければ、死んだあの子の存在やあの事件が忘れ去られてしまう、という危機感が、つらい体験を語らせているのです。

当時臨時の教員だった方のお話です。
「遺体は黒こげになっていて、誰だかわからないのです。ご両親が遺体を見て『うちの子ではありません。うちの子は山(=学校以外の場所)に逃げたはずだから、すぐ帰ってきます』と言っておられた。それがご自分の子供だとわかって、抱きしめて泣き崩れていた姿が忘れられません」

うちの子は山に逃げた、というのはご両親の心からの願いです。
その願いのために、自分の子供をすぐに抱きしめてあげなかったことが、つらさをさらに大きくしているのではないでしょうか。

その方の話は続きました。
「沖縄に米軍の基地があるから、日本が守られていると言われるのですが・・・守られている実感が・・・ないのです」