ER ガマを掘る人 ― 2009年03月13日 23時43分43秒
ERといえば救急救命室ですが、その話ではありません。
動詞にerをつけると「○○をする人」になります。
英語だけでなく、沖縄語でもそうです。沖縄語では名詞にもどんどんつきます。
(例 内地+er ナイチャー 内地の人)
友達は、写植会社のときに、責任のある仕事をまかされていました。
入ってきた原稿を、オペレーターたちに振り分けるのです。
その仕事を会社でこう呼んでいました。
「原稿ワタサー」(原稿渡し+er)(意味=原稿を渡す人)
テレビのドキュメンタリー番組を見ていたら、「ガマフヤー」の具志堅さんという人が出てきました。
具志堅さんは、休日になるとガマを掘っている人です。
だから、ガマフヤー。
沖縄は隆起サンゴで出来ているために、自然の洞窟が無数にあります。
自然の洞窟をガマと呼び、人工的に掘った穴を壕と呼びますが、ガマを人工的に広げたものもあります。
沖縄戦の時、住民も兵隊も必死で身を隠したガマや壕からは、今でも遺骨が出てくるので、ガマフヤーの具志堅さんは丁寧に丁寧に遺骨を掘っているのです。
遺骨と共に掘り出した石鹸箱には名字が書かれていて、判読することができました。
比較的珍しい名字で、調べてみると二人の日本兵が該当しました。
福井と兵庫から、お二人それぞれの息子さんが沖縄にやってきて、遺骨と石鹸箱の出た場所に立ちました。
どちらのお父さんなのか判明しないので、遺骨と遺品を、そーっと遠慮深く触る息子さんたち。
お父さんの記憶がほとんどないまま、70歳になろうという方たちです。
「どちらの親でもいい。忘れていた父の存在を呼び起こしてくれました。具志堅さん、ありがとうございます」とおっしゃっていました。
ガマフヤーの具志堅さんは、どうしてガマフヤーをやっているのでしょう。
「理由は、こうなりたくないから。戦争で死にたくないし殺したくない」とのこと。
遺骨や遺品を掘り出しても、「聖域のような気がする。触っていいのだろうか」と悩みながらのガマフヤー。
具志堅さんが手で掘っていたかつての激戦地は、遺骨収集を待たずに重機を入れられ、道路工事が始まっています。
戦前は緑豊かな丘。
60年前には焼けただれて、裸になった丘。
60年かけて、木々が茂る森になっていました。
それがアスファルトで埋められようとしている。
また、60年経つと緑にもどるのでしょうか?
職探しの思い出 ― 2009年03月14日 23時58分54秒
写植の文字盤を見ているうちに、沖縄に来た頃のことをあれこれ思い出しました。
写植で就職しよう、と決めていたので、職安に通うのはもちろん、新聞に求人が載るたびに面接を受けに行きました。
で、ことごとく不採用、と。
地図を頼りに尋ねた会社は、細い小径を延々と歩いていった先にあり、道の両脇は延々と豚小屋。
採用されたら、毎日、この道を歩くのか・・・と、ちょっとわくわくしたんですけどね。
当時、沖縄の人以外(ナイチャー)を雇うのが想定外だった会社も多く、軒並み断られていました。
面接で、「高校野球で、沖縄とあなたの県が対戦したらどっちを応援するんですか」などと言われたりしました。
なかなか仕事が見つからないので、業を煮やした私は、電話帳を広げ「印刷」や「写植」と書いてあるところに電話をかけまくりました。
「写植オペレーターはいりませんか?」
このとき、写植学校で2ヶ月基本を習っただけで、実際の経験はゼロ。
電話をかける相手へのリサーチもゼロ。
今思い返すと、私も若かったということだな~。
「写植オペレーターはいりませんか?」
「ほしいですな」
いきなり電話する方も図々しいけど、平気で応える会社も、ちょっと変かも。
そこの会社では、女性オペレーターたちが次々産休に入るタイミングだったのでした。
私の沖縄での生活は、そこから始まったのです。
(ものすごく薄給で・・・・)
ぴぐモン危機一髪 ― 2009年03月15日 23時50分34秒

兄が熟睡しているのをいいことに、ちょっかいを出そうとしている妹。
背景が異様に散らかっているのをごまかしたかったのですが、どうトリミングしても無駄でした・・・。
講習くゎいの思い出 ― 2009年03月17日 01時27分41秒
思い出が芋づる式にズルズル出てきましたよ。
沖縄に来て、なんとか会社にもぐりこんだ頃の話です。
その辺りの会社が集まって組合を作っていて、組合主催で生け花教室をするというのです。
お花の実費だけ払えばいいらしいので、さっそく申し込みました。
お稽古が始まる時間を待ちかねて、会場の集会室に行ってみると、なぜか式典の準備が出来ていました。
組合長のお話やら、先生の紹介やら、まるで入学式のようなセレモニーをやるようです。
きちんと並べられたパイプ椅子に、私を含め20人ほどの女性たちがかしこまって座ります。
来賓のご挨拶を聞きながら、頭の中では、前日読んでいたエッセイのことを考えていました。
エッセイはこんな内容です。
「四国のある地方では、『じ』と『ぢ』の発音がはっきり違う。『地震』は『ぢしん』と発音するが、テストでは『じしん』と書かなくてはならず、間違える子供が多い」
こうも書かれていました。
「九州では、今でも『か』と『くゎ』の二種類を使い分ける人がいる」
そういえば、古い本をルビを頼りに読んでいると、よく『くゎ』という表記が出てきます。
昔はみんなが使い分けていたのだそうです。
ということは、昔はちょうちょのことを「てふてふ」と言っていたということでしょう。
どじょうのことは「どぜう」と言っていたはずです。
そんなことをぼんやりと思っているうちに、プログラムは進み、組合長の挨拶になりました。
組合長は、マイクを前にして言いました。
「このたび、生け花講習くゎいを開催するにあたり・・・」
今だったら「キターーーーー」と思ったことでしょうが、当時はそんな表現はありません。
「ナマ『くゎ』を聞いちゃったよ」というような表現もありません。
ただ、しみじみと感動しながらパイプ椅子に座っていたのでした。
ワンパターン弁当の復活 ― 2009年03月23日 16時25分31秒

電話は絶対に使わせない!としがみつくニャオス。
キャベツがあれば、タマナー(キャベツの沖縄語)チャンプルー。
チンゲンサイがあれば、チンゲンサイチャンプルー。
カラシナがあれば、ゴーヤーがあれば、パパイヤがあれば、とにかくチャンプルー。
塩コショウに、お醤油少々。味付けはいつも一緒。
あとはゆで卵か卵焼き。
私が作る弁当は超ワンパターンでございます。
ワンパターンでもひたすら作り続けて20数年。
もうすでに、伝統工芸の域に達しているのではあるまいか。
平和通りで買ったアルミの弁当箱も使い続けて20数年。
「1600円もするのか。高いなあ」と思って買ったけど、今となっては安い買い物でした。
そんな弁当作りを2ヶ月以上休んでおりましたが、最近めでたく復活しましたよ。
休んでいた理由は、がらモンの失業です。
勤務先の会社が閉鎖されてしまったのでした。
この年末に失業するとは、なんてトレンディーな人なんだ。ぷぷぷ。
で、やってきたのが市・県民税の払い込み用紙と健康保険税の払い込み用紙。
これを払うと、最初に振り込まれた失業手当はゼロになりましたっつーかマイナスですけど。
何で来ないのか、不思議に思って問い合わせをしたのが、国民年金の払い込み用紙。
退職の手続きから2ヶ月経っていたのですが、「今日、コンピューターに打ち込みましたので、そのうちに届くと思います」。
なんだそりゃ。
で、それから半月経ちますが、まだ何も届きません。
とにかくそれを払うと、2度目に振り込まれた失業手当はゼロになりそうですよっつーかもう全部おろしちゃってどんどこ減ってますけどね。ぷぷぷ。
失業手当の金額に疑問があったので、がらモンに聞いてみました。
「2ヶ月以上失業していて、お手当はこれだけ?」
「そうだよ」
「じゃ、何で最初の月はすごく少なかったの?」
「失業した日からの計算じゃなくて、届けを出した日から計算するんだ。会社が12月30日まであったから、ハローワークの年末年始休みにかかって数日遅れた。届けを出しに行ったら書類が足りなくて、会社から書類をもらえたのが金曜日の夕方で、土日にかかってまた遅れた」
なんじゃそりゃー!!!!
「じゃあ、次に失業するときは、年末年始を避けた方がいいってことですかい」
「それもあるけど、ちゃんと書類を揃えてくれる会社でないと意味がない」
派遣村の炊き出しに、犬猫を連れて並んでいる男女をテレビのニュースで見かけたら、私たちだと思ってください。
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