映画「蟻の兵隊」2006年11月12日 14時02分19秒

kijimunaさんは、沖縄大学の戦争出前噺に行き、
私は、桜坂劇場に「蟻の兵隊」を見に行きました。(分業です^^;)

きつい映画だと予想がついていたので、監督とご本人の挨拶のある時間帯を選びました。
ご本人の姿を見ると、安心できるに違いないと思ったのです。
(桜坂劇場のタダ券がその日までだった・・・こともありますが、はい)

奥村和一さんは、中国山西省にいた日本兵です。
終戦後も中国に残り、中国国民党と一緒になって戦いました。
2600名の日本兵がそうしました。
なぜなら、上官の命令があったからです。

大日本帝国を復興させるために、兵を連れて戻ってくる、それまで天皇陛下のためにここで戦え、という命令です。
戦後4年間戦って、2600名のうち550名が戦死、奥村さんは捕虜になり、日本に戻れたのは1954年でした。

日本に帰ってきたものの、勝手に中国に残って勝手に戦った逃亡兵扱いで、軍籍も抹消、年金もありません。

自分たちが残ったのは命令があったからだ、という証拠探しのために、奥村さんは中国に行き、初年兵教育の仕上げとして、人を初めて殺した場所に行きます。

その土地に今も暮らす中国の人たちと話しながら、あるときは日本兵の論理になり、あるときは穏やかなおじいさんの視線になる奥村さん。

戦争は人を殺すことです。
そのために、抱えなくてはならない残りの人生。
その責任を取ってくれるところはどこにもありません。

映画の中で例のあの神社が映ります。
「今年もいいことがありますように、と初詣に来た」少女たち。
日本軍のコスプレをした一団。
暴走族としか思えない若者たち。

私がショックだったのは、そこで小野田寛郎さんが演説をしていた場面です。
奥村さんが「小野田さん、侵略戦争を美化ですか」と問いかけると、小野田さんは怒って怒鳴り返します。

演説をしている時から、小野田さんは何か変な雰囲気でした。
本気でない感じ、おちゃらけている感じなんです。

見に行かれた方の感想をお聞きしたいシーンでした。

あと3週間上映しています。
多くの方に見ていただきたい映画でした。

監督と奥村さんのトークは、映画の裏話やお二人の出会いなど、奥村さんの真面目さからにじみ出てくるユーモアにあふれたものでした。

次の上映時間が迫り、帰ろうと席を立ったものの、列が全然進みません。
????と思っていると、ドアのところに監督と奥村さんがいらして、一人一人と握手、お礼を言っておられたのです。

私も何か言おうとしましたが、握手の瞬間は、言葉になりませんでした。
ほんとうは、「奥様、魅力的な方ですね」とか言おうと思っていたのにな。

コメント

_ きじむな~ ― 2006年11月12日 22時30分12秒

私もこの映画絶対観ます。(ただ券あるし~~~~)いや。ただじゃなくても観ます!
あと太陽も見たいと思ってます。

_ さめ ― 2006年11月13日 01時44分20秒

残念!あと3週間しかやってないのですか・・。
明日から石垣島で修行、直後に仙台の日本サンゴ礁学会へ、帰沖後すぐに大度海岸でのリーフチェック調査、そして辺野古&大浦に夏の調査のフォローアップ。さらに辺戸岬で調査。1カ月先の予定までいっぱい。息つぐ暇もないです。分業ってことで許してくださいな。またいろんなお話聞かせてください>ばるタンさん&kijimunaさん

辺野古とか泡瀬干潟というと急に耳が聞こえなくなる学会のおじさま方にいつかはわかってもらわないと・・。

_ あざみ子 ― 2006年11月13日 11時34分10秒

ご本人と監督のお話も聞けてよかったですね。
映画を撮ったことで、見えてくることもあるのではないかと思いました。
奥村さんを批判するつもりはありませんが、当時の一般的な日本人、日本兵の感覚がよくわかった気がします。映画の意義は大きいと思います。
小野田さんについては、私はおお真面目にみえました。
彼は祭り上げられているのではないでしょうか。
9月に観たときの感想を簡単にブログに書いています。
よかったら、読んでやってくださいませ。
http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20060908

_ みんと ― 2006年11月13日 14時37分07秒

むむぅ〜。
これは見てみんことには、なんともコメントのはさみようがないですな。
え?コメントははさむものではない?
はさむのは、これだ!V

_ ばるタン ― 2006年11月13日 23時26分04秒

>きじむな~さん

桜坂劇場は、ただ券ばらまき過ぎではなかろうか。
非常に助かっておりますが。
私も太陽が見たい。(←もぐらか?)



>さめさん

お忙しいですね!
今年の風邪は高熱プラス下痢と吐き気で、トイレの自縛霊として暮らすことになるそうですので、気をつけてくださいね。
さめさんは調査のお仕事、こっちは映画を見る係で分業ですね。全然ウエイトが違いますが喜んで分業させていただきます~^^;



>あざみ子さん

奥村さんは、日本兵にフラッシュバックして中国の人を非難していましたね。
次の朝、もう一度あの急坂を、今度は処刑される人の気持ちになって上ったのだそうです。
そんな裏話も監督から出ていました。
子どもの時から中国や韓国の人をさげすむ教育を受けてきた世代があり、私たちは教育こそ受けませんでしたが、その世代に育てられた世代です。
ですので、今、韓流ブームで韓国の俳優さんたちが大人気なのを、私は非常に小気味よく思っています。自分ではブームに乗り遅れておりますが。

トラックバックさせていただきました^^



>みんとさん

Vではさむものと言えば・・・ゴミ!
ああ、もっともっとはさみたい・・・

_ Jitoh ― 2006年11月14日 08時27分41秒

ばるタンさん、あざみ子さん、

 この映画を拝見していないのですが、きっと私の印象はあざみ子さんと同じかもと想像中です。人殺しが仕事になってしまった時点で、もう答えはひとつしかないのですよね。その意味では、小野田氏も奥村氏も同じ加害者であり、同時に犠牲者。それよりも、こういう事実があったということを残してくださっている功績がありがたいですね。

 それと私も大陸の人を蔑む文化を知っていますよ~。未だに同和問題、部落差別、在日朝鮮人問題ありますね。それぞれ身分があり、差別があって当たり前とのことなんですが、なかなか私もそれが理解できなくて。
 一方で仲間由紀恵さんが在日韓国人役のドラマが作られたときに、これは仲間さんにとってネガティブな評価にならないか非常に心配しましたが、そんなこともなくて安心した一人でした(汗

_ ばるタン ― 2006年11月14日 18時34分33秒

>Jitohさん

だーかーらー、もう二度と加害者になるのはイヤなのだ。
若い監督が、こういうテーマに取り組んでくれるのはありがたいし励みになりますね。

蔑まないと戦えないですからね。
でも、蔑むのなら漢字を書くな、キムチを食うな、とゴネたい。
映画を見て、残留孤児を育ててくれた中国の人たちに、ますます感謝の気持ちを持ちました。あんなにひどいことをしていたのに・・・。それに、丸々太ったかわいい赤ちゃんじゃなかったはずですから・・・。馬鹿な侵略政策がほんとうに憎いです。

_ あざみ子 ― 2006年11月14日 23時40分15秒

☆ばるタンさん

トラックバックありがとうございます。
ヨンさまブームに代表される韓流は当初、メディアでも、冷ややかに扱われていましたね。
女性たちが韓国ドラマをきっかけに差別意識をやすやす超えたことはすばらしかったし、韓国と日本の距離が一気にちじまったのもよかったですね。
私も韓流、遅れてきたくちですけど(^-^;

☆Jitohさん

拙い感想を、読んでくださってありがとうございます。
奥村さんは温和な、ステキなおじいさんで、戦争で人を殺したなんて、戦後もずっと、引きずっているなんて・・・とても可哀想です。
拙ブログにあるnoharaさんのコメント
「反省は完了態であると同時に未完了態でなければならない」という言葉は、当事者だけでなく、私たちにも向けられた言葉でもあると思いました。


_ ばるタン ― 2006年11月15日 08時49分36秒

>あざみ子さん

韓流にハマった知人から、ドラマのビデオを押しつけられている友人がいます。
暇なときに見ていたら、「ベトナム戦争で戦ってケガのために失明して帰ってきた青年」というのが出てきたそうです。

日本も韓国も、アメリカと軍事同盟を結んでいるのは同じ。
でも、日本には9条があるから、ベトナム戦争に行って死んだり手足をなくしたりした人はいないんだよね、と友人は言っていました。
ベトナムで戦ったのは、私たちと同じくらいの年齢の青年でしょうね・・・。

_ rino ― 2006年12月11日 12時18分57秒

ご訪問ありがとうございました。
本記事があったのですね、、TBし直した方がよろしいですか?失礼しました。

小野田さんは未だに戦時中に生き、戦っておられる印象を受けました。ある意味、そういう運命を背負わされてしまった犠牲者の1人でしょうね・・・。これから日本の一部の政治家が目指す方向に尽力されるでしょう。

_ ばるタン ― 2006年12月11日 20時44分52秒

>rinoさん

小野田さんは陸軍中野学校出身の方ですから、下っ端の兵隊さんとは違うものがあるのかもしれませんね。子どもにアウトドアを教えておられる方だと思っていたので、私は大変ショックを受けてしまいました。

私からもTB送らせていただきたいのですが、できたりできなかったりするので、どうなることか^^;;;

トラックバック

_ SolPoniente - 2006年12月11日 23時18分28秒

「蟻の兵隊」 監督 池谷 薫今も体内に残る無数の砲弾の破片。それは“戦後も戦った日本兵”という苦い記憶を奥村和一(80)に突き付ける。かつて奥村が所属した部隊は、第2次世界大戦後も中国に残留し、中国の内戦を戦った。しかし、長い抑留生活を経て帰国...

_ 試稿錯誤 - 2006年12月26日 12時25分06秒


                                  
                     
        



本日、2006年、5月24日、映画『蟻の兵隊』の試写を観た。


映画『蟻の兵隊』のhpアドレスは下記の通り。以下必要に応じこのhpから引用させてもらう。本記事に添付した画像はすべて  有限会社蓮ユニバース からの提供である。
http://www.arinoheitai.com/index.html


この映画は元残留兵、奥村和一の現在と過去を提示する。
奥村和一は、15歳で少年兵として徴用され、中国大陸山西省で中国軍と戦った。
中国軍と、というが実際に殺戮したのは無辜の農民である。
いまでも、最初に突き殺した場面を夢に見る。にらみ返す農民に目が向けられずあらぬ方向を向いて突き刺す。何度付いても急所、心臓を刺せない。上官が怒鳴る。
あたりでは、日本兵が農民の首を、剣で叩き切っている。



日本政府が 国体護持(昭和天皇の死刑を免れること)を条件に連合国が7月につきつけたポツダム宣言を受諾したのは昭和20年8月14日のことだ。しかし、中国山西省にいた陸軍第一軍の将兵59000人のうち2600名は、残留兵として居残り、当時共産軍とたたかっていた国民党系の軍閥に合流して戦い続けたのである。なぜ、こうなったのか?


当時(戦争終了後)、「戦犯」であった軍司令官が責任追及(戦犯として)への恐れから軍閥と密約を交わして「祖国(日本)復興」を名目に残留を画策した、と主張した。実際は、残留兵を残しておのれらだけまっさきに日本に帰国してマッカーサーにすり寄ったのである。


残留兵として戦って、捕虜になった奥村は昭和23年人民解放軍の捕虜になり、中国国内で6年あまりの抑留生活を送る。故郷新潟県にもどったのは、昭和29年のことであった。終戦の翌年、彼の軍籍は抹消されていた。日本政府は、「残留兵はみずからの意志で(すなわち軍の命令でなく)残り、勝手に戦い続けた」と主張したのである。なぜか。そうしないと、ポツダム宣言に違反するからである(武力放棄、戦闘行為の終了が一つの条件であった)。奥村等13名の中国残留兵は、軍人恩給の支給を求めて困難な裁判闘争に入る。東京地裁に提訴するも、2004年4月敗訴、2005年3月の二審でも敗訴。2005年4月に生き残った5名が最高裁...