ほがらかに ― 2010年05月29日 21時42分55秒
私が沖縄に住み始めたのは復帰後10年目のこと。1982年だ。
沖縄はテレビのチャンネルが少なくて(今でも少ないけど)、画面が突然「しばらくお待ちください」になることも多かった。
NHKのローカルニュースでも、VTRが出ないことがよくあった。
どんな状況でも機転をきかせて説明する、地元の女性アシスタントが素敵で、夕方のニュースが楽しみだった。
その番組で、インタビューされていた女性の言葉を、今でも時々思い出す。
「私は戦争のことは忘れるようにして、ほがらかに暮らしています」
私はそのとき、「自分で自分をほがらかって言うか?」というポイントに違和感を覚えたのだ。
私の中では、「戦争のことは忘れるようにして」という部分は、当然至極のことだったのだから。
無知だった自分が、身もだえするほど恥ずかしい。
私はこう思っていた。
「戦争被害は、沖縄だけじゃない。広島も長崎も、幾多の空襲もあった」と。
しかし、無知な私も沖縄に暮らしているうちに、だんだんと沖縄戦や占領時代を知ることとなる。
沖縄の戦争被害が一番悲惨だった、というつもりは全くない。戦争に悲惨さの上下なんてない。
ただ、沖縄戦は地上戦だし期間が長かったこともあり、軍隊の本質をはっきりと沖縄の人々に見せつけたのだと思う。
つまり、軍隊は住民を守る機能は何もなくて、住民から食料を奪い、隠れ場所を奪い、泣く赤ちゃんを殺し、方言で話せば殺すという機能なら有していたということだ。
かろうじて生き残った人々は収容所に集められたので、沖縄の土地は米軍の好き放題となった。
収容所時代が終わり、荒れはてた土地を開墾し、やっと暮らし始めたあとも、米軍が望めば土地は接収された。
座り込んだ人々は銃剣を突きつけられ、農地や家はブルドーザーで押しつぶされた。
人権も何もなかった。
悲惨な体験を忘れるようにして、必死でほがらかにしていたのだ。
沖縄の人たちは、過酷な状況の中を歌ったり踊ったりしながら、本当によく耐えたと思う。
たとえ、目の前で家を潰されても、故郷がフェンスで囲まれて入れなくなっても、基地で働かざるを得なくなっても、耐えてきたのだ。
沖縄ほど、米軍基地との共存に努力した地域はないだろう。
米軍基地からは轟音と共に爆撃機が飛んでいく。
毎日毎日、戦闘機を間近にしながら、沖縄は平和を希求し続けてきた。
そんな沖縄の人の「もう基地はいやだ。軍隊はいやだ。平和に暮らしたい」という思いを、誰が非難できる?
昨日の集会の後、国際通りをデモ行進した。
店番のおばちゃんたちは、店先に出てきて手を振ってくれた。
マスコミは「反対グループ」などと名付けて、特殊な人たちのように言いたがるけど、基地に反対しているのはただの一般ピープルだ。
沖縄はあきらめない。
基地は地球上のどこにも必要ないものだから。

昨日もらった「怒」
雨だったので、「怒」を濡れた傘に貼り付けてデモしました。
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