友達からの電話2010年12月26日 21時49分43秒

年賀状のやりとりはしているものの、ずっと会っていない友達から電話があった。
沖縄に研修で来ていて、時間があったら会いたい、ということだった。
残念ながらバイトの日だったので、都合がつかなかったのだが、彼女と一緒だった幼稚園や小学校の頃がよみがえってきた。

Rちゃんとは幼稚園で出会ったのだ。
私は幼稚園の途中入園だったので、下駄箱の位置も幼稚園バッグをかけるフックも座る椅子の場所も一番最後のはじっこ。
それがある日、私の場所が最後から2番目になった。
私より遅く途中入園した子がいたからだ。
それがRちゃん。

私はぼーっとした子だが、Rちゃんはきちんと主張する子だった。
幼稚園の大きな部屋で、ぐるりと椅子を並べて先生の話を聞いているとき、Rちゃんと私は何やら小競り合いになり、Rちゃんは私の指に噛みついたのだ。
私はびっくりして、Rちゃんが指から離れるのをしばらく待っていたのだが、全然離れない。
離れないどころか、どんどん強く噛むので、だんだん痛さが増していく。
ついに耐えきれなくなった私が「わーん」と泣き、やっと気がついた先生が、Rちゃんの口をこじあけてくれた。

Rちゃんの意志の強さに一目置きながら同じ小学校に通いはじめたのだが、Rちゃんは小児ぜんそくで、学校のある療養施設に長く入ることになった。

小学校の高学年になって、Rちゃんは戻ってきたが、体育の授業は見学していることが多かった。
だから、Rちゃんが体操服に着替えてみんなと一緒に校庭にいると、それだけでクラス中が盛り上がる。
「Rちゃんは今日は大丈夫なんだ」「咳が出ないんだ」とうれしくなった。

その日の授業は、のぼり棒。
当初、竹製だったが、竹が傷んできて鉄棒に変わっていた。

棒を支えている上の輪っかにタッチするまでのぼる。
みんな次々とのぼっては下りた。
ふと気がつくと、Rちゃんの番になっていた。
「Rちゃん、のぼれるかな」
そういえば、Rちゃんがのぼり棒をのぼっているのを見たことがなかった。
しかし、Rちゃんは案外スムーズにのぼっていくではないか。
ああ、よかった・・・。
と安堵したのだが、あと少しのところでRちゃんの動きが止まってしまった。
それ以上のぼる力がないようだった。

Rちゃんは、力をふりしぼって、片手を伸ばした。
そして輪っかにタッチしようとしたが、あとほんの数センチ届かない。

クラス全員固唾を呑んでRちゃんを見つめた。
全員が「ああ・・・」と思わず声に出してしまった。

Rちゃんは、人差し指一本をうーんと伸ばして、輪っかをつつこうとしていたのだ。

人差し指一本より、手のひら全部を伸ばした方が長いのではないか、ということは、あとになってみればわかることだけど。
どうしても自分の力でのぼって輪っかにタッチしたい強い思いが、あの人差し指だったわけです。


今回は会えなくてほんとうに残念でした。
Rちゃんのあの姿は、金メダルのときの荒川静香の演技と並んで私の記憶の中に入っているよ。
かっこいい、うつくしい、感動的つながりで。

初めての「スローバラード」2009年06月15日 00時19分18秒

またまたキヨシローの思い出でございます。

高校の頃、ふと気がつくと、どこの友達のうちでもテーブルでご飯を食べるようになっていた。
だけど、うちではずっと座卓。冬は掘り炬燵。
ご飯は家族揃って食べる。
昭和だなあ・・・。

日曜日は、みんなで夕飯を食べたあと、みんなでNHK大河ドラマを見る。

うちでは、チャンネルを変える権利は姉だけが持っていた。
ほかの家族は全員、「自分がチャンネルを変えるなんておこがましい」と心の底から思っていたので、争議にはならない。

大河ドラマが終わったあと、姉がチャンネルを回した。
偶然か、姉が見ようとした番組だったのかわからないが、変な声で歌うグループが映った。
「あっ、RCサクセションだ!」

放送が始まったばかりのテレビ神奈川。
ヤングインパルスという公開生放送の番組に、RCがレギュラーで出演していたのでした。

それから毎週、大河ドラマが終わると「それっ」とばかりにテレビ神奈川を見るようになった。

RCは10分か15分をそっくり持たされていて、3曲歌う。
おかっぱ頭に鉢巻きを巻いたキヨシローは、とてもかわいかった。

祖母は耳と目が悪かったので、大河ドラマをテレビの至近距離で見ていたのだが、その続きでキヨシローもかぶりつきだ。
「かわいげな。男か、女か」
「男だよ~。キヨシローっていうんだよ」

そのかわいげな男が、軽いおしゃべりをしたと思うと、歌い出すとアレである。
鉢巻きから汗が伝って、涙のように流れる熱唱だ。
「泣きょおる。かわいそうになあ。キヨシロー・・・」
もしかして、祖母が一番のファンだったかも。

RCは、自分が持たされた時間を、実に自由に好き放題に使っていた。
たとえば、「ラジオは音が途絶えると放送事故だが、テレビは映ってさえいたら放送事故ではない」と言って短い曲を3曲やり、あとは黙ったまま映っていたことがあった。

アイデアはすごいんですけど、「キヨシロー、歌わんのか?」と不思議がっている祖母に説明しづらい。
だいたい、「ヤングインパルス」なのに、「ヤングインポルノ」と言うし。

毎週毎週、「そう来たか! よくやるよ・・・」と呆れたり笑ったりした。
コミックバンドかと思えば、歌い出すとアレである。

(ずっとあとになって、RCやタイマーズがテレビ番組で物議をかもすことがあったが、当時のヤングインパルスを見ていた人にとっては、デジャヴみたいなものです)

そこで初めて「スローバラード」を聞いたときのことを覚えている。

♪きのうは車の中で寝た♪とキヨシローが歌ったとき、会場は大笑い。我が家でも大笑いだったのだ。
どうせこいつは、家を閉め出されて、寝るところがなかったんだな、と思ったからだ。

それまで、自転車の歌を多く歌っていたから、車に乗っているとは誰一人(?)想像しなかった。
曲が終わったとき、全員「あっ私は今何を聞いたんだ?」ときょとんとした。
すごいのを聞いちゃったことはわかるんだけど、どうリアクションしたらいいのかがわからない。
分類に困る歌と言いましょうか。
今なら「キヨシローの歌」と分類すればいいんですけどね。

「ぼくの自転車の後ろに乗りなよ」も、牧歌的な裏声で始まって、突然ハードになる。
そのたびに、80歳目前の祖母も高校生の私も「ああ・・」とため息をついていたものだ。

もし、私が祖母の年まで生きることができたら、きっとそのときもまだ、キヨシローを好きなのだろうな。


さて、キヨシローへのインタビューで、とても印象深かったやりとりを書きます。
インタビューの意図とは答えがずれているんですけどね。

Q「まちがいない、オレの子だ」と確信するのはどんな瞬間ですか
A「眠るときもいっしょにいるし、朝、目覚めたときからいるのだから、それでいいのだ。もしもオレの子じゃなくても、もうオレの子だよ」

お月様お願い2009年06月10日 00時06分58秒

梅雨に入ったはずなのに、沖縄は晴れの日が続いています。
毎晩毎晩、お月様がきれいに見えます。

お月様を見ると、キヨシローの歌を思い出してしまう。

♪お月様お願い あのこを返して♪ だったり、
♪ハイウェイのお月様 いつもいつもそばにいて♪ だったり、
♪ジンライムのようなお月様♪ だったり。

CDやDVDを持っているんですけど、今はまだ全然聴けません。
タイマーズなら、キヨシローじゃなくて似た人なので聴けるかな?と思ったんですけど、本人そっくりだからやっぱりまだ聴けないなあ。


以下、ただの思い出話でございます。

高校の頃、深夜放送を聞いていたら、北山修が「レコードにあなたの声も入れましょう。方法は二つあります」と盛んに言っていました。
フォークの歌い手が大勢出演するコンサート(当時はライブとは言わない)があり、そこにオーディションで選ばれた歌い手も参加できる。コンサートは実況録音のレコードになるとのこと。
「もう一つの方法は、会場に来て何か叫ぶことです。それが録音されるかもしれません」

叫び声がレコードに入ったら、末代までの恥だわよ、と私は思いましたが、オーディションでどんな人が選ばれるのか、非常に興味を持ちました。
それがRCサクセションだったのです。

ラジオで「泥だらけの海」を聞きましたが、そのときすでにキヨシローは「ガッタガッタ・・・」と言っていました。
もっとこの人たちのことを知りたいなあ、と思いましたが、北山修はコンサートの司会もしたはずなのに、曲を事務的に紹介するだけ。
多分、相性が合わなかったのではなかろうか。


何ヶ月か経ってから、実況録音(死語)のLPレコードが発売されました。
私は買わなかったのですが、買った友達は「失敗したなあ」と言っていました。
友達の感想はこうでした。
「いろんな人が出ているのに、RCサクセションしか良くない」
借りて聴いた私の感想。
「ほんとうだ。まったく同感です」
というわけで、ファンになってしまったんでした。

悲しき発泡スチロール2009年04月07日 16時43分39秒

ちょっと思いついたことがあって、発泡スチロールを削る私。

きちんと測らずに、適当に削る。
小学校の図画工作のとき、先生から「ばるタンはアイデアはすごくいいんだけど・・・、いくらなんでも仕上がりが汚い。もっと丁寧に作れないものかしら」と言われたことを思い出します。
はるか昔の思い出なのに、今ここで言われた言葉としても完全にピッタンコです。
あと一万年生きて、いろんな工作をしたとしても、汚い仕上がりは変わらないんだろうな。
だけどさ、どうせなら「作業はめちゃくちゃなんだけど、アイデアはいいわね」と言ってほしいものですね。


しばらく必死に削っていたら、当然のことながら、カッターも床も私も、そばにいた黒猫も、発泡スチロールの白いつぶつぶまみれになりました。


思い出がさらに湧いてきます。

詰め物と言えばおがくずだった小学校の頃、百科事典ぐらいの大きさの発泡スチロールが、何かの荷物と一緒に入ってきました。
珍しくて珍しくて、これはいったい何だろう、何に使ったらいいのだろうか、と家族で盛り上がったものです。
「豆腐の代わりに味噌汁に入れる」というのは却下されました。
枕にしてみたらキシキシと音がして、やかましいということもわかりました。

祖母は、発砲スチロールにじっと手を当てて言いました。
「これはぬくい。手があたたまる」

そういういきさつで、暖房器具として祖母の部屋に置かれるようになった発泡スチロール。
いったいどういう生活なんだ、と思われるかもしれませんが、そういう祖母だったのですよ。

明治27年生まれの祖母は、アイデアが豊富で、手作業もきれいにこなし、労を惜しまず働く人でした。
そんな祖母が、発泡スチロールを見ているうちに何を思いついたのか、今となってはわかりません。
とにかく祖母は、何かの形にしようと、削ったのだと思います。

ぱたぱた・・・という音に気がついた私が祖母のところに行ってみると、発泡スチロールのつぶつぶを全身にまとった祖母が縁側に立っていて、必死でつぶつぶをはたき落とそうとしているところでした。
つぶつぶは静電気を帯びて、あっちにくっつき、こっちにくっつき位置を変えているだけで、絶対量は少しも減りませんでした。

あのあとどうやって収拾したのか、私にはそこの記憶がありません。



それから時が流れ、友人に「うちのおばあちゃんがね・・・」と、そのときの話をしたことがあります。
友人はまじめな顔で深く肯いて、「わかるわかる。そうなのよ。発泡スチロールは悲しいのよ」と言うのでした。

友人の話。
「子供の時、大きな発泡スチロールをもらってね、うれしくて、冷蔵庫を作ろうと思ったの。包丁でくり抜こうとしたら、想像したよりずっとよく切れるのね。あっという間に手までズバッと切っちゃった。もう血だらけよ」

さらに友人の話。
「つぶつぶはガムテープにくっつけて取ればいいのよ~」


そうか! おばあちゃんもガムテープを使えば良かったんだ! いいことを聞いた!と思いましたが、、あの時代の我が家にガムテープがあったとは思えません。
たとえあったとしても、ゴミを取るためにガムテープを使うなんて、きっと祖母は良しとしなかったことでしょう。もったいない、と言うに決まっています。


そんなあれこれを思い出しながら、ガムテープを大量に消費しながらつぶつぶ退治をしました。

なんとも判断のつかない変な工作が使い物になるのかどうか・・・それは今度の日曜日、国際通りで判断することになります。

ティーとユーアイ2009年03月29日 18時18分51秒

沖縄に住みはじめた頃、「ここはアメリカだ」と思ったり、「琉球文化だ」と思ったり、いろいろと興味深いことが多かったです。
(今はすっかり慣れきって、何がなんだかよくわからなくなっている・・・)

沖縄に来る前は「コーヒーにする? 紅茶にする?」という言い方しか知りませんでした。
その場合、沖縄では「コーヒーにする? ティーにする?」と言います。

では、ティーにしてください。
一年中どの季節でも、迷うことなく冷たいティーが出てきますよ。

「アイス入れる?」と聞かれるので、(紅茶フロートか。おいしそう)と「入れて」と言います。
アイスクリームではなく、氷が出てきます。

アメリカだわ~、と感心している私に、会社の友達が言いました。
「仕事が終わったら、ユーアイに行こう。楽しいよ」

ユーアイ?
YOU I?
それはいったいどういう意味ですか????

意味がわからないまま、ついていくことにしました。

古波蔵でバスを降りて、那覇大橋を渡って、 奥武山公園をぐるりと回ったところの建物に向かって進んでいきます。

「友愛スポーツセンター」

日本語かよ!

そこは、各種のスポーツができる施設で、当時珍しい筋力トレーニングの機械やサウナもありました。
どれも、安いお金で楽しむことができたのです。
私たちは、卓球台とラケットを借りて汗びっしょりになるまで遊び、施設内のレストランでぜんざい(金時豆入りかき氷)を食べるのが常でした。

正式には「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」です。

沖縄戦の始まる直前、1945年1月に沖縄県知事として赴任された島田叡さんは兵庫出身です。

戦場になろうとしているところなので、辞退されてもおかしくない状況ですが、島田知事は沖縄に来て、住民の疎開や食糧確保に尽力されたそうです。
そして、沖縄本島南部のどこで亡くなったのか、今でもわかっていません。(各種の説があります)

そんなこともあって、兵庫県の方たちが沖縄県民のために寄付を募り、「友愛」の言葉を入れて完成した施設でした。

復帰後すぐの建物ですので老朽化が進み、奥武山公園に大きな野球場ができることもあって、先日、取り壊されました。
今は、その場所に、記念碑が建っています。

3月も終わりに近づきました。
4月1日は、米軍が沖縄に上陸した日です。
4月8日は、沖縄をめざした戦艦大和が海に消えた日です。
そんなこんなで、私の心は64年前をさまようことが多くなります。
心が過去に沈んで戻らない時は、奥武山公園の記念碑の前に立ちたいと思います。
「友愛」の言葉が、きっと私を支えてくれることでしょう。


だけどさ、古波蔵から那覇大橋を渡って友愛センターまで・・・昔はよく歩いたなあ。
あれだけ歩けば、卓球しなくても充分運動になったと思いますわ。ほほ。